「命どぅ宝」を訴え平和運動に生涯をささげた阿波根昌鴻

阿波根昌鴻(あはごんしょうこう : 1901年〜2002年)は、沖縄県本部町に生れる。
24歳で結婚、学資を稼ぐために単身でキューバに移民、そしてペルーへ渡り、1934年に日本に帰国。
妻とともに土地を求めて伊江島に渡り、雑貨店をはじめ、少しずつ土地を買い込み、大地主になる。
伊江島に飛行場が作られ、外国帰りだということでスパイの容疑をかけられる。
1945年4月16日、米軍が上陸、住民は慶良間諸島に移され、米軍は伊江島を本土攻撃の拠点としようとした。
一人息子は兵隊にとられ戦死。
伊江島に戻れたのは、戦争が終わって2年後の1947年3月。
伊江島の63%が米軍基地になっていた。
1955年、米軍は「銃剣とブルドーザー」で実弾演習所のためさらに土地をとりあげていった。
伊江島の住民は、危険な演習地の中で畑を耕し、薬きょうを拾って売り、そんな住民を米軍はカービン銃で追い散らし、耳より上に手をあげると暴力をふるった証拠とし逮捕したり殺害したりした。
この実情を全沖縄住民に訴えようと、1955年7月から1956年2月まで約7ヶ月間、「伊江島土地を守る会」の会長を務め、沖縄本島で「乞食行進」をおこなった。
これが、祖国日本への復帰運動の原動力となる。
1960年代、ベトナム戦争がはじまると、伊江島では、核模擬爆弾の投下演習が行われるようになり、祖国復帰運動が全面的に展開されるようになる。
日本復帰後、基地の全面返還は叶わなかったが、伊江島の米軍基地は32%になった。
しかし、復帰によって軍用地料が上がり、米軍基地に頼って生活する人が増えた。
そのため、伊江島の基地は強化され、ますます危険な演習が行われるようになった。
「武力によって平和は生れない」ことを信条に反戦地主として、基地の返還運動を訴え続けた。
1984年、反戦平和の資料館「ヌチドゥタカラの家」と、すべての人が語りあえる宿泊施設「やすらぎの家」を建てた。
1999年にこの施設は法人化され「わびあいの里」と名づけられた。
101歳まで、ここを拠点に反戦平和を訴え続けた。
テーマ:沖縄│ジャンル:地域情報
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│2009/01/07(水)23:08


















































